One Of A Kind

ツイッターには長すぎるつぶやき、感想とか。エンタメ系はなるべくネタバレはしないことを信条にしてます。

椎名林檎というレメディ

先日深夜番組を見るでもなくただつけていたところ、椎名林檎と言う単語が聞こえて来た。

 

テレビ画面にはカラオケで椎名林檎を歌う女はエロいと言う事についてかなり熱弁している男性がいた。ぼんやりとしか覚えていないのだけど、みんなで一緒に縦ノリできるような曲ではなく聴かせるための技術力が必要な歌、ましてや歌詞もライトではない彼女の曲をカラオケで狙って歌うような女性はエロい、と。

 

一緒に出てた女性ゲストも「…たしかに」みたいになってる。私もテレビに向かって「…たしかに」みたいになる。

 

言われてみれば、(意識しあう)男女が混合でカラオケをしているときに椎名林檎の曲を歌う人は女性だけ、もしくはもう気心知っててすっぴんでも平気ですみたいな男女混合グループでカラオケに行く時よりも少ないような気がする。

それってエロいからなのか?そうなの?椎名林檎の曲はむやみやたらに歌ったらいけないルールが私が知らない間に日本国に制定されてたの?よくわからないけどそうなの?

 

てゆうかそもそもエロいってなに?

エロいって、エロスから派生した日本語(といっていいのかわからないけど)ですよね?

性的なことに使われることが多いけどそもそもエロスって確か愛とかそういう意味じゃなかったっけ?

 

人はカラオケに行ったら歌いたい歌を勝手に歌えばいいのでむやみやたらに椎名林檎を歌っていいのかいけないのかは置いておくとして(私は勝手に歌わせていただきますので関係ない)、なんで椎名林檎という人の歌が(万人とは言わないが)刺さる人にあり得ないぐらい刺さるのか、ということをぼんやりと考えてたんです。

 

椎名林檎って、とても特徴のある声を持っていて、歌はもちろん上手くて、独自の世界を築き上げ、めちゃくちゃ綺麗で色っぽくて、かなり稀有な存在だと思うのですが、生き馬の目を抜く芸能の世界、他にもそういう歌手の方っていると思うんですよね。人によって好みって違いますし。

 

そんな感じで自分の中の何がそんなに椎名林檎に惹かれているのかの答えが出ないままでいた時、Apple Musicから流れてきた「長く短い祭」を聞いて、ああああああ!!!!!って。

 

www.youtube.com

 

この曲、「私が思う」椎名林檎を非常に表してる曲なんです。

 

抑えられない狂気が溢れて止まらなくなりそれが踊りとして湧き出る、その様は目が離せないほど美しい。人が生きているというその事実、それだけで芸術なんだ、とクラクラするぐらいの強烈さで主張する。(法律違反はダメですけど)

 

 

人って誰しも狂気を持ってるはずなんだと思うんですよ。狂気という言葉で表す、熱狂だったり、狂乱だったり、熱意だったり、深すぎる愛だったり。なんにせよ止められないほどのほとばしる思いが。その狂気の方向性は、恋愛だったり仕事だったり趣味だったりと、人によって違うから自分と走る方向性が違う他人を見ると「狂気」としか表現しようがないけど。でもたぶんみんな持ってる。

 

そして人はその、みんな平等に、でも違ったベクトルに内包している「狂気」をあやしながら社会生活を送るわけで。「狂気」は24時間いつでも全力でエンジンかかってあるものではないじゃなくて、何かのスイッチが入ると止められなくなるもの、普段は認識しながらも自分の中に飼いならしている存在で。

 

でも、たまにあるじゃないですか。

どうしても自分の中の狂気を自分の身体から解放したくなる時。

 

で、椎名林檎の曲は彼女本人が持っている彼女の狂気を彼女独自の上質な気品でこれ以上ないぐらいに美しく包みながら慈しんでいて、だからその曲を聴くと、私は自分の中に生まれる様々なベクトルに向かって激しく抑えられなくなりそうな気持ちを落ち着かせられる、ことがある。

なんというか私だけかもしれないけど、椎名林檎の曲を聴くとその「狂気」を私の身体から、ほんの少しだけ、彼女の歌の持つ愛と上品さで包みながら解放できてる気がする。

 

ご本人は完全無欠のエンターテイナーって感じなのでもしかしたら私が「彼女の狂気」と思っているものすら彼女の計算によるものなのかもしれないけど。だけどそうだとしても私はそのアートに対するこだわりはある種の狂気ではないかと思う。

 

ていうか一応言っておくと私が狂気とを体の内側に抑えることが全くできずに生きてたらそんなのサイコパスの名作『アメリカン・サイコ』の世界ですよ。そこまで頭おかしくはないです。

 

世の中には音楽がないと生きていけない人と、音楽はあんまり聞かないし特にこだわりもないし別になくても平気っていう人がいると思います。

私は音楽がないと生きていけないタイプに所属している人間なのですが、なんで音楽がないと生きていけないのか、ということについてはそんなに考えたことがなかったんです。

でも、昨日の夜から、椎名林檎と自分の距離感を考えていたら、私にとっての椎名林檎は、「毒をもって毒を制す」薬なのかなと。そして椎名林檎だけに限らず音楽は自分にとっては薬として必要な存在なんだな、ということがわかりました。

 

 

 

ちなみに私は椎名林檎をカラオケで歌います。

いざ、キューバ!準備編

初めて存在を知った時からいつか行きたかったんです、キューバ

 

カリブ海に浮かぶ、社会主義国

 

キューバ、なんかよくわかんないけど、みんなおしゃれなパナマ帽をかぶってて葉巻をくゆらせながら生演奏の軽快でセクシーなリズムに体を揺らして今を生きているイメージ、ありません?

私はあった。

キューバ、子供たちがぼろぼろのボールを目をキラキラさせながら蹴りあって走る路地裏の壁には峰不二子みたいなお姉ちゃんの絵が描いてあってその峰不二子の伏し目がちな瞳に心を奪われちゃうイメージ、ありません?

私はあった。

キューバ、蒸し暑い夕方、にぎわうバーに入ると褐色の肌をしたイケメンバーテンダーが音楽に合わせて歌いながらグラスの中のミントをつぶし、そこにたっぷりのラムを入れたモヒートを作ってウインクしながら渡してくれるイメージ、ありません?

私はあった。

 

キューバ、なんかよくわかんないけど行きたいな、って思いません?

 

学生時代からいつも旅行先候補には上がってたんです。でも、一緒に行こうとしてた人の都合が悪くなったり、今度は行こうとしてたタイミングに自分に外せない用事が入ったり、あといい歳してるとはいえ女の私がキューバとかエジプトとかそういういわゆるちょっと危なそうなイメージの国に行くっていうと母親が母親らしく心配され、なんとなく他にも行きたい国は世界中にあったのでキューバに行かないままなんとなくあっという間に時は経っていたんですよ。

 

が、2015年にアメリカとキューバが国交回復したあたりから、「これはそろそろ本気で急いで行かないと、キューバの豊かで独特な文化はどんどんアメリカ化するぞ…危険だ…」と思うも、思うだけでなんとなく行かずに過ぎる日々。

人間が(というか私が)いかに普段流されて生きているかがわかりました。

 

なんとなくいけそうでいけない国、キューバ

 

なんとなくなんとなくって、田中康夫かよ!って突っ込みたくなるかもしれませんが、私も途中まで書いてて突っ込みましたが、旅というのは結構『なんとなく』で決めるものですよね?私は旅が大好きなのですが大体なんとなくで行き場所を決めることが多いのでいつも田中康夫です。

田中康夫を知らないあなた、Google先生に聞いてください。そんな私も元ネタの本は読んだことがありません。)

 

そんな感じでなんとなくいつも心にはあるのだけど行かずに時ばかりが経ってしまっていた2018年秋、なかなか人生のいろんなことに息苦しさというかどん詰まり感を感じていたというかなんというか未来への希望というか平凡な日々への起爆剤というかなんかよくわかんないけどそういうのが欲しかった私は、ある朝目を覚ましたベッドの中で、どうしても、私は、キューバに、行かなくてはいけない!と目をカッと見開いたんです。

 

思ってしまったら最後、決めてしまわないと気が済まない。

 

キューバ行こう!って言ったら乗ってくるだろうなーっていう人に声をかけるとイエスの返答。

そこからは

 

キューバ 日本 行き方

キューバ ビザ

キューバ 宿泊

キューバ 何泊

キューバ 観光 おすすめ

 

と、まあ次から次へと検索の嵐を起こし、日々カラフルなキューバの写真を見ながらテンションを高めつつフライトを抑えて現地に行くことが可能な状態を作りました。

 

ちなみに抑えたフライトはカナダのトロント経由。なぜなら同行者が中国系カナダ人だから。

東京-トロント-ハバナキューバの首都)のフライトは飛行機が遅れるとなかなか乗り継ぎが危ないという話を聞いたので往復共にトロントでの宿泊を挟む余裕のスケジュール。大人ですね。私。

 

宿泊に関しては、色々調べた結果社会主義国キューバはたとえ5つ星ホテルでもあまり期待はできない、それよりもカーサ・パルティクラルといういわゆる民泊だとキューバの人とも触れ合えるし現地の生活も垣間見ることができるからオススメ!っていう記事がとても多かったんです。確かにこれからキューバでは(アメリカとの国交断絶により)止まっていた時は進み出し近代化がどんどん進む。だったら今のリアルを知れるであろう民泊はいいかもしれない。そうだ、そうしよう!と民泊サービスAirbnbにて評価が高いところをいくつか選んで同行者に送る。パティオから見たカラフルな街並みとか、豪奢ではないものの泊まるには過不足ない部屋、さらには朝ごはんを作ってくれるところも(これは追加料金あり)。

と、みていたのですが正直同じようなところが多いので2人とも途中からどこでもよくない?状態になり結構簡単に決まる。

 

ここまで年明け早々に決まり、あとは行くだけの状態!

 

と、思いきや日本人は事前にツーリストカードというビザみたいなものを在日キューバ大使館にて取得する必要があったり、さらには海外旅行保険証書が英語で必要だったり(これはカード会社の海外旅行保険を使ったのですがカード会社の方が「最速で何とか処理します!」と処理をしてくださりぎりぎりだったにもかかわらず間に合った)、カナダに行く私はカナダのETAというこれまた短期滞在する人が取る必要のある手続きをしなければならなかったり(これはネットですぐできる)で、直前に気づいた私はバタバタしてました。かなり、バタバタしてました。

 

ツーリストカードを取ったのは日本を旅立つ2日前。

もしこれから行かれる方は精神衛生上もう少し早く取得することを強くお勧めします。

 

と、いろいろ本人の不手際により直前までバタバタドキドキしましたが、あとは!行くだけ!失われた50年を感じるロマンの旅!

 

 

続く。

船出はいつだって嵐ぐらいがいい

日曜日、嵐が活動休止するというニュースを知ったのは千秋楽の大相撲の中継を見ていた時だったんです。

 

そう、ニュース速報。

 

流れるテロップが伝える嵐の活動休止そのものには驚きすぎて一周まわってどこか冷静だったのですが、嵐という”いち”グループの活動休止は天下のNHKがニュース速報で流すほどのものなのかということへの驚きの方が大きかったんですよね。ああ、嵐って本当に「国民的」アイドルグループなんだなぁ、と。また、時代が一つ終わるんだなぁと。

 

日曜夜も月曜朝もテレビで放映される記者会見の様子を見ていたので、大体の会見の内容は知っているしそれは読んでいただいている方々も同じかと思うので特に敢えて記事を貼る必要もないとは思うのですが、この青木アナウンサーの一連の記事は嵐のファンのみんなの心情も伝えているんだろうな、と。

www.sponichi.co.jp

 

自分自身に当てはめた時に、自分が好きな芸能人が活動を休止する・引退するなどが理由で「一睡もできなかった」という経験が人生で今までないので(というかそこまで人生に影響を及ぼすほどたぶん芸能人を好きになったことがない)、そのインパクトは私にはわからないんですよ。でも、ネットだったりテレビだったりを見てると本当にそういう人はいるわけで。わからないけど、でも「一睡もできなかった」の方を基準に自分の経験と比べたら、それってたぶん彼氏と別れた時ぐらいだ、と行き着いたんですね。

……え、ちょっと待って…?!そう思うと嵐の存在に支えられていた人代表としての青木アナウンサーの一睡もできなかったが超わかる。そらしんどいわ!となる。青木アナウンサー、よく会社来たね。有給も使いづらいお仕事だもんね、がんばれ。と勝手に青木アナウンサーを応援したくなる。そして日本中に、いや世界中にいる多くの嵐ファンの人もさ、出社した人、よく頑張ったね。学校行った子、偉いよ。変わらず家事をするお母さん、お疲れ様です。そして何より受験生、頑張れ!となりますよね。

私の周りでいうと、海外に住んでいるけど嵐の大ファンで大好きすぎて日本語を習得し、さらには日本に仕事を見つけ海を渡って日本で「嵐活動」をしていた子がいるんですね。彼女はすでに母国に帰っているのですが、今回のニュースで一番に浮かんだのは彼女が無事かどうかでした。まあ結論から言うと瀕死の状態で、今すぐ日本に帰りたい、これから2年弱、何も逃したくない。つらい。と言って泣いているんですね。とりあえず来てしまえ、と無責任なことを言っておきましたが。ほんとに来そうだな、来るんだろうなあの子。

 

…と、そんな熱狂的なファンがたくさんいることは日本国民ならだれも知っているであろう嵐というグループ。なにより嵐の5人はファンの情熱を誰よりも一番知っている。でも、知っているけれどそれでも今回の活動休止を決断したこと、そしてそのきっかけとなった大野くんから他のメンバーへの告白。私はずっとニュースで会見を見ていて、お互いとファンと関係者とマスコミに敬意を持ちつつ冷静に経緯と気持ちを伝えていたこの5人にもんのすごい漢気を感じました。無責任の真逆にいると思った。

 

今いる場所のほうが楽なんですよ、たぶん確実に。成功はわかりきっていてみんなに必要とされていて愛されていて。人間だれしも変化って大変なわけですし。

 

それを全て捨てても、ファンが一度は悲しむとわかっていても自由を経験したいという自分の抗えない思いを行動に移した大野くん。そして、なんとか説き伏せることもできたに違いない、けれど違う方向へ進みたいと思うメンバーを止めることはできない、止めてはいけない、とそれを受け入れた4人。そして前に進んでいくためのベストな結論を出した5人。

 

情報番組を見ていた時、コメントで「30代の男は、いろんなことを考えていて、ここが動ける最後かもしれないといつも悩んでいる。だから大野くんの気持ちがとてもわかる」みたいなことを言ってる方がいたのですが、それは女も一緒だ。そして30代だけが悩むんじゃない。40代だって50代だって60代だって、10代だって20代だって悩んでる。

それでも多くの人は悩みながらももがきながらも日々の仕事とか暮らしとかに流されて、気づくと時間はどんどん過ぎていて、なんとなく乗ってしまった船で進んでしまった道を行く人が大半だ。もちろん進みたかった道に乗って高速で爆走してる人もいる。うまくいっていたらいい。でも、一度乗ってしまった船から降り自分の意志と力で進む方向を変更するのは本当に大変だ。進む方向を変えた時に、今持っているものが変わらず自分の手にあるかは全くわからない。成功、充実、のどかな日々、安定…。今持っているもの全部を失うかもしれない。

 

それはまるで嵐の中の船出じゃないか。積荷は全て波にさらわれてしまうかもしれない。船ごと沈むかもしれない。前は見えない。後ろにも戻れない。かろうじてどこかにたどり着いてもそこは荒れた無人島かもしれない。もう出来上がって自分の入る余地のない都市かもしれない。自分が求めている手に入れたいものが手に入る確率なんて低いもんだろう。それでもたぶん、人はどうしてもその船出をしたい、せざるを得ない時があるんだ、と大野くんを見て思った。わたしは大野くんの決断に自分はただ漫然と生きているのかも、と肩を揺さぶられた。

 

その一方で、ツイッターでは #大野くんの夏休み という非常に優しさで満ち溢れたタグができていて、ああ、もしかして大野くんは本当に夏休みを取りに行くだけなのかもな、と思ったりもする。

 

大野くんが夏休みをとるのかそれとも自分の進みたい道を見つけに嵐の中航海に出るのか、それは大野くんしかわからないし、大野くんもたぶんまだわかってないんだろうな、と思う。

 

けど、大野くんの進む道が、時に厳しいものであったとしても、笑顔に溢れている素晴らしいものであってほしいな、と嵐世代の私は願うばかりです。彼が船で新たな大地を目指して旅に出るとしても、釣りに出るとしても。

『ちょうどいいブス』はいらない、いつも心にデビ夫人を。

昨日から日本人女性(少なくとも私の周りの)の脳内にこびりついて離れない

『ちょうどいいブス』

というワード。昨日、止まらない思いをエントリー↓にしたためたわけなんですが

 

oneofakind.hatenablog.com

 

昨日一連のツイートをした時と上の記事を書いていた時にずっと頭にあった話がありまして。

 

それはアメリカ人歌手のアリアナ・グランデが朝の情報番組(『ちょうどいいブスのススメ』を放映する日テレの『スッキリ』)でお笑い芸人の春菜と共演した時のことなんです。春菜の鉄板ネタの

マイケル・ムーア監督じゃねーよ!シュレックじゃねーよ!」

っていうネタを司会の加藤浩次と一緒にアリアナにやったんですね。日本だったらみんなが知っているこのネタ。そして大体みんなが笑うやつ。これを、アリアナ・グランデは何が面白いのかまったく理解できてない様子で全然ほんとに笑わなかったんですよ。途中でたぶんほんとにわからなさすぎてアメリカ人がわからない時によくやる両手を上にあげながら肩をすくめるポーズ(ちびまるこちゃんの花輪君がやるやつね)までして、

「あなたは『カワイイ』わ!」

って言っていて、本当に本当に何が面白いのかわかっていなかったんですよ。

私、これ、リアルタイムで見ていたのでゲストで来てくれた大物歌手が笑ってくれなくて現場がちょっと焦ってるのが伝わってきてたんですよね。春菜は困った顔をしていた。で、後から分かったのはアリアナ・グランデはCM中に春菜に対して

「あなたは本当にマイケル・ムーアに似てない。私が約束する」

って声をかけたらしいということ。詳しくはこちらの記事を読んでください↓

 

www.excite.co.jp

 

この話を最初に知った時、

 

日本の常識、世界の非常識。

 

っていう言葉が浮かんだんですよね。こういうこというと海外かぶれとか言われるんでしょうけど、島国日本の価値観や常識は世界で通じないことがたくさんある。それはいい。別にいい。だってどの国だって独特の文化があって中には日本人の私たちには理解できないこともたくさんあるから。だけど、時代というのは常に前に進んで変わっていくものであって、時代は変わっていくのに自分は変わらない、っていうことは退化でしかないと思う。そして今の日本はそれが平然と行われていると思う。

 

常識・非常識、でいうと、私は女子高育ちなのですが、同じように

 

うちの高校の常識は世間の非常識

 

って言われてたんですよ。女しかいない世界でのびのびと育ったから、男性を意識することがなかったんですね。大学に入って家族以外の男性と日々接するようになって初めて、共学育ちの女子たちと違って色恋沙汰の際に「男に媚びる」方法を知らない自分に愕然としたんですよ。今思えばそんな媚び売る必要なんてそもそもないんだけどさ。18歳とかだしさ、当時。それでも、その時の論点はあくまでも一人対一人の話だったんですよ。

 

その後社会人になると、

上司というものは概して男性で、社会人だから上司の言うことには従わなくてはいけなくて、でも上にいる人が男性だらけだから女性の価値観は全く無視されて、女性の価値観は理解できない人たちだから女性は上に上がることもとても難しい、

というのを目の当たりにしたんです。

 

勉強ができる、歌が上手い、走るのが早い、絵がうまい、とか、純粋にその人そのものが持つ資質のみで人は「この人はこういう人」というキャラクターづけされるのが当然だと小さな時から疑いもせず思っていた私には、男と女、という性別があるだけでその定義づけや世界がまるで変わる、そもそもの出だしの待遇が違うっていうことがある、という事実に動けなくなるぐらいにショックだったんです。

 

今の世の中には、たくさんの『違い』がある。性別だけじゃない。国籍・宗教・文化…。本当にたくさんの『違い』がある。『違い』は全くもって悪いことではない。私は『差別』というのは相手の立場や状況を考えないで自分の考えを押し付けることだと思っていて、『違い』がもとで『差別』することは悪いことだしあっちゃいけないと思ってます。

これ絶対。

 

で、今回は自分が女だから、『ちょうどいいブス』の押し付けに対してキーキー言ってますけど、逆もあるからね。男性に女性が押し付けてることたくさんあると思う。たとえば男の人は男らしくたくましく頼りがいがあるのがいい!っていう概念を無意識に押し付けてしまっているかもしれない。それに苦しんでいるけど声を上げられない男性がいるかもしれない。

 

ただ、女性に押し付けられる男性世界の価値観が話題に上ることが多いのはやっぱり今の社会が(未だ世界中で程度の差はあれ)男性主導社会だからなんですよ。女性やその他のマイノリティが権利を主張するのは本来持つべき権利を持ってないからなんだよね。そして平等な権利を主張する女性の活動や言動に対してネガティブな批評がされたりするのは、今いい立場にいる男性(の大部分)が、自分の立場が今と変わってしまうことに恐怖を感じているからなのでは?『ちょうどいいブス』なら男性に恐怖は与えないから彼らは女性に『ちょうどいいブス』をもとめるのでは?

 

さらに怖いのは価値観を押し付けられている女性そのものがその押し付けられた価値観を正しいと思い込んでしまっていること。

 

要するに洗脳されてるんじゃなかろうか。

 

男も女も一緒の人間なのに「女は一歩引いて男を立てるべき」とか自分で思い込んじゃってないでしょうか?「男性を立てる」価値観が正しいんではなくて「相手を立てる」価値観が美しいんだと思うんです。だけどたぶん私たち日本人女性は武士の国日本の女性だから、男性を立てる=相手を立てる=正しいっていつの間にかずれてしまった価値観を正しいと思い込んでないだろうか?

 

だから、男性は女性に何かを押し付けるべきではないし、女性は男性に何かを押し付けるべきではない。男性は女性に押し付けられた何かを甘んじて受ける必要もないし、女性は男性に押し付けられた何かを甘んじて受ける必要はない、そもそも人に何かを押し付けないほうがいいよ、と、私は思う。

男性とか女性じゃなくて、一人の人間として相手と向かい合うべきなのでは。

そしてその集合体が、社会なのかなって。

男も女もおんなじ人間ってことを心から理解することが大切なんだと思うんですよね。

 

 

だから、私たち日本人女性が自分でできることって、まずは自分は尊敬をもって扱われるべき人間であり、『ちょうどいいブス』ってちょうどいいんじゃない?なんて言われたらそんなやつとはスパッと縁を切ることだと思います。自分をきちんと扱ってくれない人や集団と付き合う必要ないでしょ。どうしても縁が切れないのであれば

「え?ちょうどいいブス?この私を捕まえてちょうどいいブス?オホホホホ!面白い冗談ですこと~~!」

って、心にデビ夫人(叶姉妹でも夏木マリ様でもお好みでお好きな方を)を降臨させませんか?

『ちょうどいいブス』という概念を押し付けられる私たち

(人物名敬称略させていただいております)

山崎ケイの『ちょうどいいブスのススメ』が2019年1月期にドラマ化とのことですね。

nlab.itmedia.co.jp

主演が夏菜なので「ブスじゃないじゃん!」って方向に騒がしくなってるのもありますが、私がこのドラマ化を聞いた時に最初に思ったのは

 

おいおい日本のキー局は『ちょうどいいブス』コンセプトを女に押し付けるんか!

 

でした(文字サイズと文字色は私の心の現れです)。

(ちょっとそれますけど夏菜さんが主演であることに関して言えば、「美人でしかない夏菜が自分をブスに見せるのが女優であって美人でしかない夏菜が美人にしか見えなかったらそれは夏菜の力不足だ」と思っております。シャーリズ・セロンの「モンスター」を見てくれ。)

 

ツイッターでも言いましたけど、私、山崎ケイさんかなり好きで飲みに行ったらめちゃくちゃ仲良くなれそうな予感しかないんだけど、それはあくまでも

 

山崎ケイという頭のいい女性がモテようとして自分をマーケティングした結果『ちょうどいいブス』という絶妙なブルーオーシャンを見つけたからそこにはまるために自分を磨いて自分のアイデンティティとして誇りを持ってお笑い芸人をやっている(現実世界でも芸人としての売りとしても)”

 

から面白いんであって、ドラマ化反対っていうわけではなく、その山崎ケイの『ちょうどいいブス』をドラマ化するって時に『ちょうどいいブス』というキャッチーなフレーズ部分のみをテンプレ化して不特定多数の女性にあてはめようとしているように見えてしまうから「え????」ってなってしまってるのが現状なんですよね。

 

だって、公式サイトに

www.ytv.co.jp

 

女性としての「生き方指南・共感ラブコメディー」をお届けします…ってあるんだよ…。生き方指南…。

 

絶対男性主導で企画進んでるんだろうな、と思って公式サイト見たら、チーフプロデューサーは当然男性、プロデューサーも4人中3人が男性で唯一の女性は1番下。監督も男性。脚本は女性。

見える…見えるよ、女性も参加してるんだから女性の意見も取り入れて作られたドラマだよ!ちゃんと原作は女性だし脚本も女性だぜ!という思考が透けて見える。あくまでもすべて私の想像というか推測なので本当は違うかもしれない。

 

でも、山崎ケイが自分のアイデンティティとして「私はこうなんだ」、っていってやるから『ちょうどいいブス』は賛同を得て本を出すまでになったのであって、自分が『ちょうどいいブス』になる『生き方指南』受けたいですか?

 

私は受けたくない。

 

自分がプロデューサーだったら、世の中に『ちょうどいいブス』って自分たちが思えるように女性に生き方指南してやろうぜ!ドラマ作ろうぜ!ってなる?

 

私はならない。

 

山崎ケイの本を読んで彼女の考え方を知りたいとは思うけどさ(彼女がオリジナルでたどり着いたその思考経路は面白いと思うから)。

 

今回の『ちょうどいいブス』は山崎ケイが生み出したコンセプトではあるし、そのマーケティングができて『ちょうどいいブス』というキャッチーなフレーズを生み出した山崎ケイは本当に頭がいい女性だと思う。彼女がそのコンセプトで生きていくのはあっぱれ!って思う。

 

ただ、本は読んだことないんですけどテレビやネットで彼女の発言や行動を見ていると、彼女は『ちょうどいいブス』だから成功したわけでも人気があるわけでもないよね。観察する限りとても気遣いのできて人のほしいものを見抜く力がある頭のいい女性だから、成功したし人気があるんだと思うんですよね。原作本読んでないからそっちはモテテクのオンパレードなのかもしれないのですが。

 

だから、『ちょうどいいブス』という言葉だけが今話題になって独り歩きしている感じがあるけど(自分もこの言葉に黙っていられなくてこのエントリー書いてるわけだけど)、ドラマが始まったらすごく素敵なドラマになるかもしれない。そこはまだ未知数だと思ってます。

 

まあ、少なくとも1話目は見よう、って思ったから番組マーケティング的には大成功だよね笑(面白くなかったらバッサリやめるけど)

 

素敵なドラマになることを願っております。

 

そしていつか本当に山崎ケイさんと飲んでみたい。

 

 

 

二者択一ポイント制

自分の中でなんとなくもやもやしていたことがちょっとだけすっきりしたのでちょっと備忘録程度に書きとめます。

 

よく考えれば非常に簡単な話なんですが、人の性格とか個性って『二者択一』の連続と積み重ねでできていますよね(まあ2つ以上の選択肢があるシーンもあるけど、それも優先順位が低いところから2つづつ選択を重ねると考えればある種の二者択一だし)。

そしてこの『二者択一』はたぶん人の行動思考すべてについてまわる。たとえば、ちょっと風邪気味の日に大事を取って休むのか無理をして会社に行くのか。予算より1000円高いけど好物のランチを食べるのかそれとも予算に収まるようにするのか。気になるあの人にメールするのかしないのか。自分が生きる1分1秒、すべてが選択の連続でできていて、その選択が自分を構成している。

そしてこの『二者択一』、自分のことだけじゃなくてすべての対人関係に対しても言えるなって思ったんですよね。長年生きていると自分にとって「話の合う人間・合わない人間」「趣味の合う人間・合わない人間」「感性の合う人間・合わない人間」のような様々な『二者択一』が人間関係で出てくると思う。そしてたとえば、「話が合う」ひとつとってもそれが仕事の話なのかプライベートの話なのか、じゃあプライベートの過ごし方となったらアクティブに過ごしたいのかおうちでのんびり過ごしたいのか、おうちでのんびり過ごすとしたら、となったら一日ゲームをしたいのか料理をしてお酒飲んでのんびりしたいのか、等々どんどんと細分化もされるし。そしてこの気の遠くなるような『二者択一』のかけ合わせによって人間関係やら相性が出来上がる。

 

で、みなさん、この『二者択一』ってどんなふうにできてるのか考えたことありました?私はなかった。私はこのことが頭に浮かんで自分のケースで考えているとき、これは私だけかもしれないのですが、この『二者択一』が加点法・減点法ともに適用されるポイント制みたいになっているな、と感じたんですよね。これ、すごいドライだな、と思いますが同時にとってもシンプルでわかりやすいなって。

0点を基準点として、二者択一の選択が自分と合う(=受け入れられる)部分はプラスに加点され、合わない部分はマイナスとして減点されていくんですよね。で、マイナス〇〇点未満になるとちょっと分かり合えなさすぎて友達にはなれないな、とかプラス〇〇点以上行くと物理的には年に1回も会えないような人でも生涯の友だな、って思える、とか。

自分の中の基準点として持つマイナス〇〇点未満、の〇〇点が低ければ低いほどたぶんその人は比較的どんな人とも仲良くできるし、プラス〇〇点が高ければ高いほど「知り合い」レベルの人が周りに多い(=友達が少ない)のかもしれない。

別に好きな人が多いのがいいこと、とか嫌いな人が多いから嫌な奴、とかいう話でもないと思うし、でもこのルールを自分に当てはめて考えたときに結構面白いなって思いまして。

この『二者択一』の答えがどちらであっても気にならないような要するに「自分にとってどうでもいいこと」に関しては自分はどうでもいいから人に合わせられるけど、逆にものすごくクリティカルな『二者択一』もあって、そういう時は一つの選択肢が自分と違うとそれだけで分かり合えなかったりしてしまう、というようなこれだけは譲れないという絶対ルールが人それぞれあるんですよね。

そしてその譲れない部分、こそがその人のアイデンティティなんだなあ、と。

 

 

という感じで、人間の個性っていろんな測り方があると思ったのですがこの『二者択一』方式のかけ合わせと譲れないポイントはなかなか奥が深いなーと思いました。

 

 というわけで、特に落ちはありません!

Hikaru Utada Laughter in the Dark tour 2018

宇多田ヒカルのライブ「Laughter in the dark」初日に行ってきました。

時間をかけて推敲して書こうとするとと昨日感じたことがどんどんFade outしてしまいそうなので熱いうちに書き殴ります。

 

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休止期間明け最初のライブ。過去の彼女のライブに参加したことはないので私にとっては初めての宇多田ヒカルの生の歌と空間。

青春時代宇多田ヒカルで育ったようなものなのでたぶん知らない曲はないと思うし、だからどの曲を聞いてもビビットにそのころの思い出がぶわ!っと思い浮かぶ。若いころの曲も深いけど、最近の楽曲はどんどん哲学みが増してきているなあと思うし、個人的にはもう宇多田ヒカルって輪廻転生の最終ステージなんじゃないか?と思ってます。

とりあえず簡単に言えばめちゃくちゃ大好きなアーティスト。本当に楽しみに横浜アリーナへと向かいました。

 

これからライブに参加する人が大勢いるのでまずネタバレをしない程度の感想を言おうとすると、ほんとに、宇多田ヒカルすごい…」「エモすぎてなんにも言えない」としか口から出てこなくなります(昨晩の私)

 

今まで数えきれないほど、ウォークマンの、そしてiPhoneのイヤホン越しに、家のスピーカーで、街中の有線越しで聞いていた宇多田ヒカル。その歌は何度も何度も何度も何度も聞いていて頭に入っているし理解してるしその深さに時には涙させられることも多々あった。私は宇多田ヒカルと言う音楽家が作る世界が大好きだ!…と、思っていました。でも、昨日ライブに行き、彼女が自分の身体を使って発するその「音」を彼女の存在している空間で生で聞いたら、大げさではなく世界が一段上がった気がしました。開けたというか。今までは聞こえてるだけ文字を理解しているだけで「わかっている気がしていたんだ」、と思わされたというか…。それぐらい宇多田ヒカルの生の歌声はすごかった。

 

例えるならば、今までは美術館で展示された展示品をガラス越しに見て、イヤホンガイドで解説を聞き、ギフトショップでレプリカを買ってその展示品を「わかった」気になっていた。けど、その展示品を守っているガラスをぶち破り、直接手に触れてその質感や重みや匂いを自分の体で感じたら本当にその展示品を理解できた、そんな気持ちになりました。

どんなに恋についての小説を読んで胸が高まる想いや死にたくなるぐらい切ない思いを疑似体験しても、本当に人間相手に恋をすることにはかなわないのと一緒というか。

 

ライブで生で歌声を聴くと言うことは音源から聞くのとまるで違うと言うことは今まで自分が行ったことがある好きなアーティストのコンサートで体験してきましたが、今までの体験とは桁が違った。宇多田ヒカルが彼女の身体を使って奏でる音が、私の身体の中に入ってきて染みわたる感覚とでも言えばいいのでしょうか。ぶっちゃけ宗教じみていたかもしれない笑。

 

これはたぶん私がデビュー当時からの彼女のファンであり、エンターテイナー、アーティスト、音楽家としての宇多田ヒカルのみならず、哲学家なのではなかろうかと思わせる彼女の広く深い歌詞に魅了されているせいももちろんあると思います。現に私の隣にいたカップルは男性が宇多田ヒカルファンで女性は連れてこられた、って感じだったので女性の感想は「生でも歌うまいね~ヒカルちゃんかわいいね~」って感じだったので。すいませんその横でボロボロ泣いてしまってほんとすいませんすいませんすいません。

 

あと、話がずれますが、そして上でも少し書きましたが、宇多田ヒカルが歌うのを見るといつも思っていたことがあって。彼女、自分の身体を楽器として扱っている感じを受けるんですよね。そしてライブに参加してさらにその感覚が強くなりました。普通の歌手の方を見ているときは歌ってる本人とその体は元から一つなので歌っている時もその人が歌っているって言う感じが当然するんですけど、なんというか、そうではなくて、宇多田ヒカルが『宇多田ヒカルというフィジカルの意味での身体』を演奏しているというか。そして宇多田ヒカルという人間は決して枯渇することのなくわき続ける何かをいつもその体の中にあふれさせていて、それを文字にし音楽にのせて身体を使って奏でているというか。うまく言えないんですけど…。

それを昨日のライブで強く感じたシーンがあったんですけど(これはプランされたものではないだろうからネタバレとは違うと思うので書きますが)、実は宇多田さん昨日一回歌い出しで間違えてしまって初めから歌いなおす、という場面があったんですね。ちなみに「間違えちゃった!」ってなったときの宇多田さんはとってもかわいかったです。宇多田ヒカルの歌の中でもとてもシリアスでディープな歌だったのですが、「間違えちゃった!ごめん!」ととってもかわいく謝って「やりなおしやりなおし!」となったその瞬間ほんとに一瞬でスッ!っとチューニングして歌いだした感じがまるで楽器を操るようだったんですよね、見ていて。 もちろんどんな歌手の人もプロであれば間違えてしまった時のリカバリーって瞬時でするものだと思うのですが、宇多田ヒカルを見ている時に感じる、その、身体を操っている感じ、に私は彼女の神秘性を感じて引き込まれてしまうんですよね。

 

宇多田さん、合間合間のトークをする様子がとても可愛くて、「ありがとうって言う言葉しか思い浮かばない」と何度も言っていたのが印象的でとても可愛かったんですけど(そしてそのたびにそれはこっちのセリフだよって思ってたんですけど)、彼女って歌っている時のなんか上の世界とつながってるんじゃないかな?って言うぐらいの存在感と、話している時の「普通の女子」感のギャップがとても魅力的だなあと思います。なんていうか、天才過ぎて、いつまでたってもいくつになっても人間として生きることに不器用な感じがする。だけどだからこそ彼女しか見えない世界があって生まれる言葉の数々があるんだろうな、と。

 

ちなみに宇多田ヒカルの考えでは絶望の反対語はユーモア、らしく、これは過去のTwitterとかインタビューでも言っていたそうで、今回のツアーでもそのテーマがベースに流れていたのはわかりました。ユーモアって客観の視点をもって初めて生まれるもののわけで、絶望の嵐の中にいるときに自分を客観視することはただでさえとても難しい。でもだからこそ、絶望の中でもユーモアを持つというのは生きていくうえでとても大切なことだと思うしそのテーマが彼女の楽曲のそこかしこに見えることを改めて感じました。

 

で、ツアー名の「Laughter in the Dark」って、ウラジーミル・ナボコフというロシア人の作家の小説の名前なんですね(「ロリータ」を書いた作家だそうです)。全く知らなかったので家に帰ってからどんな小説なのか調べてみたんですけど、なかなかダークな小説でした笑 宇多田さんはこの「Laughter in the Dark」をツアー名にするぐらい好きと言うことでしょうから、きっとこの小説の中に絶望とユーモアをみたんだろうな。プロットを読んだだけでは正直ユーモアが全く見つけられなかったので笑、機会があったらこの小説を読んでみたいなと思います。

日本語でプロットを書いてあるリンクを見つけられなかったので英語ですがWikipediaを張っておきます。ご興味のある方は読んでみてください!

Laughter in the Dark ↓

Laughter in the Dark (novel) - Wikipedia

 

 

とりあえず走り書きですが書いて少し興奮が収まりました!お読みいただきありがとうございます!

 

最後に、これからツアーに参加するラッキーな方々に言いたいのは、何にも考えないでツアーに参加できる喜びを味わってください。ってことです。ほんとに、ほんとに、パーフェクトですから!今回残念ながら落選した方、なんとなく、宇多田さんはこれからもずっとずっと歌い続けてくれるような気がするので、次を楽しみにしましょ!